古狸退治「石田三成 プレイリポート」(その2)




     盟友滅ぶ(1601年9月〜


家康の矛先を華麗に回避して反対に飛騨を手中に治めた石田軍。
これで徳川軍の動きも鈍ると考えた石田三成は高山城に家臣を集め、
あらたな領国経営を始めるのでした。

徳川の前線に兵力が集中しつつあるこのタイミングで、
美濃の内政を打ち切って飛騨に武将を集中させるには勇気が必要でした。
石田家にとって北陸にぽつ〜んと残った東軍諸勢力
前田家は目の上のタンコブ、邪魔な存在です。
早いところ飛騨高山城から前田家の富山城を攻略したいところ、
勢いに乗って前田家を滅ぼし少しでも武将の数を揃えたいのです。

 「殿、富山城は手薄、いつでも出陣できますぞ。」

左近の声に三成は答えます。

 「全軍、前田家の富山城を攻撃せよ!」

まぁ、三成は戦場には出ないんですけどね、配下の武将達は兵士と一緒に戦仕度。
前田家の命運もこれまでかと思われたその刹那、
火急の使者が飛騨高山城へと飛び込んで来ました。

 「石田様、お願いでございます。上田城をお救いください!」

がーん。
ウチらは大丈夫だけど真田は大ピンチらしいぞ。
上田城を徳川勢に取られると美濃はいままで以上に危険な地になってしまう。
三成は出撃していった家臣たちを呼び戻します。

戻ってきた武将たちは岐阜城に再集結、兵力は高山城から輸送中。
全力で助けてやるコトは出来ないが、城を守る程度なら可能だろうな。
っと、簡単に考えていました。

しかし上田城へと救援に辿り着いたが時既に遅し、
城門はすでに開かれており城内へと徳川兵が飛び込んで行きます。
後方から徳川の部隊をちぎっては投げちぎっては投げ、
なんとか部隊ひとつを壊滅に追い込んだものの、
奮闘虚しく上田城は陥落。

石田勢は徳川の部隊ひとつを壊滅させたので相手の傷兵を吸収しています。
ここで倒れるワケには行きません。
意地でも岐阜城へと退却して傷病兵を回復させたいのです。
徳川軍もこの戦いで手痛い反撃を喰らっていたのか、
退却する石田軍は見逃してくれました。
でも、

   んー。この時点で早くも真田家を失ってしまったか……。

衝撃的事実はさらに続きます。
なんと風前の灯火かと思われた前田家が動き出したのです。
前田軍は北庄城を目指し途中で支城を築城しはじめました。
北庄城には2万の兵を駐留させています。
しかし武将達は岐阜城へと撤退中。

   なにも出来ない……。

そうこうしている内に前田家の支城「大聖寺城」が完成してしまいました。
兵力はまだ少なく8千程度、このまま押し込まれると危険と判断した石田軍は、
島清興、蒲生頼郷、大谷吉継を北庄城へと移動させ騎馬隊1万、足軽隊1万で出陣。
編成は大谷吉継(足軽)「鼓舞」に島清興&蒲生頼郷(騎馬)の「突進」「先駆け」。

ところが前田軍も粘ります。
次から次へと援軍が大聖寺城へと兵力を補給していくではありませんか、
この大激戦をなんとか制したのは我等が石田軍。
大聖寺城を攻略した後の傷病兵の数は約2万。
兵士をほとんど失わず攻略に成功したのです。
なんとかなりそーな予感っ!?


     岐阜城炎上(1603年6月〜プレイ断念


石田軍が前田軍を相手に激闘を続けている頃、
上田城を手にした徳川軍は関東平野の兵力を集中させてきます。
美濃はまもなく大きな戦いに巻き込まれるでしょう。
岐阜城には4万という大軍を待機させていますが、
敵も見事なモノで清洲城に3万、上田城に3万の兵力を有しているのです。

味方で当てに出来そうなのは大和郡山城にいる豊臣軍2万のみ、
かなりのピンチと言えるでしょう……。

三成はここで一計を講じます。
岐阜城に兵3千を残し、近江と美濃の中間地点、大垣城を築城し、
残りの兵力をその大垣城へと全て輸送しました。

   簡単に言えば空城の計といったところでしょうか?

岐阜城に僅か3千しかいないと油断した徳川軍は
その全戦力を岐阜城へと向けはしないでしょう。
1万や2万で攻めてくれればそれらを各個撃破する作戦です。
下手すれば敵に労せず美濃献上となりかねません。危険な策ですが、
このまま恐れているだけでは確実に岐阜城は陥落します。

ちなみに岐阜城は「三層天守」「石垣」「鉄城門」「二の丸」と、
現段階でできる限りの防護策を施した堅城です。
周囲には鉄砲櫓と罠を密集させています。

   決戦の時は静かに、しかし着実に迫ってきました。

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1603年8月、戦いは突然はじまりました。
清洲城から2万、上田城から2万の総勢4万を出撃させた徳川軍。
部隊に所属している武将を調べてみると榊原康政、井伊直政の名が見えます。
家康自らも出陣、どうやらアチラさんは本気のようです。

石田勢は島清興、蒲生頼郷、大谷吉継(いつもの3人ですけど)に
それぞれ約1万前後を与えて大垣城から出陣します。

堅城と化した岐阜城へと雪崩れ込む徳川軍。
その背後を襲う石田の精鋭3部隊。
戦いは6ヵ月もの長期にわたりました。

家康の「威圧」や「混乱」に苦戦させられながらも、
粘り強い大谷吉継の「鼓舞」と岐阜城からの投石で大勝利。
榊原康政、井伊直政を捕えることに成功しました。

この勝利から数ヵ月後、
徳川軍は再び上田城と清洲城に兵力を集結させました。
その数はそれぞれ4万、ぱっと見た目で総勢8万以上。

これまでの激戦で岐阜城の周囲にある鉄砲櫓は半壊、
岐阜城の修復だけは間に合いましたが、
これ以上の籠城はムリでした。

家康や本多正信、正純親子の「篭絡」「混乱」に翻弄され大敗を喫しました。
この後、岐阜城は徳川軍に奪われ、石田軍は撤退を繰り返し、
徳川軍の勢いに屈するコトになりました……。

   大惨敗っ!

これ以上の抵抗は出来ませんでした。
捕縛した榊原康政、井伊直政の首を刎ねたから一矢報いたと言えるかな?
でも、リプレイを抜きにしてデータをロードしてやりなおしたものの、
どうしても岐阜城を守ることができず、
それではと、後退しながらもしつこく抵抗してみたら、
兵力と兵糧収支のバランスが崩れて兵糧切れ、どうにもなりません。

皆さんのご期待に添えるように頑張ってみたのですが、
こりゃ、最初からやり直すくらいダメな展開っぽいです。

同じシナリオの上杉景勝リプレイでは徳川軍を手玉に取れたのですが、
これは東北がまだ群雄割拠している状態であり、
最上義光や津軽為信に伊達政宗、片倉景綱主従を家臣に出来ました。
結果的に智将の数が充足していた為かと思います。

それに対し石田三成の初期領国は4つと、そこそこ大きな勢力なのですが、
戦場で頼れる家臣は島清興、蒲生頼郷、大谷吉継のみ、
徳川軍の計略系戦法を弾き返す程の知謀は大谷吉継にしかありません。
滅ぼされた真田家の武将たちを登用すれば……とも思ったのですが、
見事に徳川家をスルーし東軍大名家に登用されていました。
これらが苦しい理由と言えるでしょう。

早い段階で細川家を滅亡させ、前田家を通過し
東北へと逃げ込めばなんとかなるのでしょうけど、
それじゃ上杉景勝リプレイと同じ展開になるワケで……。

でも、なんか気になるんで、
もぅ1回始めからやり直してみようか?
というワケで次回、速攻で細川家を攻撃してみます。