←
↑
□
→
少数精鋭「今川義元 プレイリポート」(その6)
本多忠勝、最後の戦(1577年〜
蝦夷の地にて上杉家が滅亡し、その戦力を西に向けた今川軍の次の敵は毛利家である。
中国地方のほとんどと九州の北部、四国の一部に伸ばした勢力は侮り難い、
技術面でも弓技術と水軍技術はほぼ最大にまで伸ばしており、
海上ではおそらく歯が立たないであろう。
幸い、鉄甲船のほとんどは対島津戦のために九州方面に出払っているようである。
現時点で毛利家の主戦力は九州に集結されているようであった。
対する今川軍は東日本の各港から兵力を海上輸送し敦賀港へと集結させた。
その数は、なんと二十万近くにものぼり、その兵力を持って西進を開始したのである。
もちろん太平洋側の兵も集結させ熊野港、堺港へと配置された。
熊野にも二十万、堺には十万と、いかに毛利家が強大な勢力だとしても、
今川軍の武威にはかなう筈も無いと誰もが思っていたのである。
熊野には酒井忠次が、堺には榊原康政、敦賀には本多忠勝、
今川軍の中核を担う三河松平三人衆はそれぞれの港に入り、
毛利戦、いや天下統一のために進軍する。
これでは毛利家もジワジワと後退せざるを得ない。
起死回生を狙い九州から兵力を呼び戻した毛利元就は、
吉田郡山城と月山富田城に兵力を集中させた。
四国への対策としては上陸を阻止すべく安宅船を配備した。
たしかに水軍技術を全く持っていない今川軍が用意できる船は、
里見水軍、安東水軍が持っていた関船のみであり、
そう言った点では四国上陸は難しかったのである。
水雷で武装した毛利側の港、
酒井忠次や弓に秀でた者達を集結させ関船で攻撃を仕掛けると、
想像以上に水雷の防衛能力は優秀で次々とコチラの艦船が轟沈していく。
船が沈めば部隊が乱れ、部隊が乱れれば戦果も上がらない。
兵士はいても率いる武将が少なく、となれば出陣できる部隊数も、
さらには他家が残してくれた関船の数も限られている。
どうも戦果に対してのコチラの被害が大きすぎる。
そこで陸路でまず吉田郡山城と月山富田城を攻撃したいのである。
その城下にある能島港、美保関港には安宅船が何隻か蓄えられており、
最悪でも関船が十隻単位で手に入るであろう。
敵の港を奪えば四国の各港への補充もそれだけ困難になるであろう。
かくして堺港から進軍していた榊原康政らは吉田郡山城に向かい、
敦賀港から進軍を開始していた本多忠勝らは月山富田城へと向かった。
実際のところ楽勝ペースであった。
弓技術的には「与一の弓」の分有利な今川家だが、
毛利家もそれほど劣っているワケではない。
しかし圧倒的に違うのが足軽技術である。
武田、上杉のように騎馬技術が発達しているワケでもなく、
我が今川家のように足軽技術が進んでいるというコトもない。
弓は強力だが直接攻撃部隊が弱いために弓隊をガードし切れないのである。
月山富田城を攻める忠勝隊も間も無く城壁に取り付き、
あとは切り崩すだけとなっていたのだが、忠勝はずっと悔やんでいた。
数正殿を死なせたのは自分のせいではないかと、
自分の部隊が疲弊し一度城へと退こうとした隙が数正を殺してしまった。
確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、
忠勝にとって、いや部隊を率いる将にとって間違った判断ではない。
苦悩の中にある忠勝、それでも愛槍蜻蛉切は敵を突き続けていた。
そんな時突如今川軍は混乱に陥った。
忠勝と共に進軍してた大久保忠佐隊が退却を開始したのである。
これは毛利側の偽報の計略であった。
同じように次々と撤退する今川勢、しかし偶然にも策を見破った忠勝隊のみが、
逆に戦場に取り残されてしまったのである。
「いかん、敵に包囲される前に我が隊も退くぞ!」
忠勝の判断は間違いではなかった。
が、数正を死なせてしまったという思いがその判断を誤らせた。
「いや、待て退くな、我が隊が他の隊の殿を務める。」
いや、既に敵の術中にはまっていたのかも知れない。
敵に取り囲まれてしまった忠勝隊ではあったが焦りはなかった。
これくらいの修羅場なら幾度と無く乗り越えてきた三河武士を信じていた。
そしてその修羅場となった戦場を駆け抜けてきた己と愛槍を信じていた。
事実、忠勝隊が動けば毛利勢の足軽隊は次々と倒れていった。
他の誰も死なせないと奮戦する忠勝に近付こうとする毛利兵はいなかった。
「臆したか毛利の兵よ。」
一歩踏み出せば、敵兵も一歩下がる。
忠勝隊はジワジワと後退を始めた。
忠勝の武威に毛利勢は恐れをなしたのである。
しかし、毛利にも忠勝をに負けず劣らずのツワモノがいる。
月山富田城から吉川元春隊が忠勝追撃に出陣。
死をも恐れぬ三河武士団を激しく追い立てる吉川元春隊、
それをも食い止める本多忠勝隊、
「怯むな、敵はただの一部隊。我らはその一部隊を包囲しているのだぞ。」
元春は味方部隊を鼓舞し更に追い立てる。
しかし、まだ崩れない忠勝隊、
「元春様、ヤツは鬼神です。近付いたら殺される!」
毛利勢が悲鳴をあげる。
これではすでにどちらが包囲しているのかわからない。
忠勝はそれだけ恐ろしかった。
「えぇぃ、槍も刀も通じぬならば弓を持てっ!」
元春までも弓を構え忠勝にのみ矢を放った。
飛び交う矢をも切りっては落とし、突いては落とす忠勝だったが、
ひゅん、……どす。
忠勝は自らの身体に熱が走ったのを感じた。
鎧の継ぎ目を正確に狙った矢、只者ではない。
その矢の主を探す、そして名のある将を見つける忠勝、
「吉川元春殿とお見受けいたす、御首頂戴する。」
自軍の将を庇おうと次々と兵士が群がる、
しかしそれを一蹴すると忠勝は馬を元春に向け槍を構えた。
父が殺される! そう感じたのは己も武勇の士とされる故の直感か?
吉川元長は兵達に命じる、
「敵は手負いぞ、恐れるな!」
襲い掛かる兵に触れられるコトもなく薙ぎ払う忠勝に、
元春もまた手にしていた弓を捨て槍を取った。
いかん、父はあの死兵と槍を重ねるつもりだ。
元長は焦り声を荒げた。
「えぇぃ、何をしている。一斉に矢を放てっ!!」
「まて、かの将はこの元春に勝負を挑んでおるのだ。」
「父上、なりませぬ。もはやあの者は人に非ず、怪にございます。」
「それでもよい。」
父は駆け出していた。
もう一刻の猶予も無い。
「元長さま?」
弓を構えたままの兵が不安げに元長の顔色を伺う。
確かに槍を合わせたら危険、弓で射た方が良いだろう、が、
元春に制止され、弓を射ていいものか元春に任せていいものか、
判断に迷っているのである。
「……わたしが許す、全軍矢を放て! あの怪を射殺すのだ!」
どすっ、どすどすどすっ
正面から、側面から、そして背後から射られた矢を全身に何本も刺し、
ついには落馬した忠勝、わぁっとあがる歓声。
しかし死を確認しようと近付いた兵が崩れ落ちると歓声はすぐに悲鳴にかわった。
ハリネズミのように全身を矢に覆われた忠勝はその愛槍を杖に立ち上がると、
不用意に近付いた兵を突き殺し尚も元春へと一歩、また一歩とあるき始める。
毛利の兵にしてみればまさに怪であった。
忠勝は槍を杖に腰から太刀を抜き元春へと向かっていく。
「敵ながら天晴。」
腰から太刀を抜いた元春は忠勝に斬りかかった。
その一撃を弾くと忠勝は更に一歩踏み込む。
「勝負を受けてくださるとは有難い。」
そう言うと忠勝は剣を退き再び構える、が、
力の無い太刀が空を斬ると同時に忠勝は、
いや忠勝だった骸は前へと倒れこんだ。
「……ち、父上っ!」
太刀を抜き警戒しつつ父の元へと駆け寄る元長に元春は心配を掛けたと詫びた。
そして元長に言う。武人として敵に背を向けて死するは恥だと、
忠勝は最期まで背を向けず前に進み続けた。
「本多忠勝こそ真の武人なり。」
忠勝討死の報を聞いた義元は、
嘆き悲しみ三日三晩余り自室を出ることは無かったという。
忠勝の武威に敬意を払った毛利家は遺品としてせめて主君の下へと、
最期まで忠勝が握り締めていた「蜻蛉切」を返還した。
忠勝討死の報を信じられなかった元康だが、その槍を見て信じざるを得なかった。
元康はその槍に縋り泣き崩れたという。
1578年、忠勝を失ったが井伊直政が元服を終えていたので登用する。
それまで忠勝に与えていた「蜻蛉切」以外の家宝や官位及び役職を、
そのまま直政に与えた義元は、
酒井忠次、榊原康政、井伊直政を軍事の中核として四国方面に酒井忠次を、
山陽方面を榊原康政、山陰方面を井伊直政と方面軍の編成をしなおす。
本来、井伊直政は1576年、駿府にて登場のハズだが、
戦が続いていた為に忙しく、筆者であるわたしが探すのを忘れていたのだ(スマン
こうして三河の松平四天王は揃うことなく時代は動き続けるコトになる。
山陰方面を担当した井伊直政は月山富田城を苦しみながら攻略に成功。
四国上陸を担当した酒井忠次らもまたどうにか上陸を果たす。
戦いは新たな局面を迎えることになった。
ちなみに「蜻蛉切」は天下統一まで今川家の宝物庫に大事に保管されるコトになった。
また対上杉戦で討死した数正に与えた弓術書も同様に保管されている。
さて予想外に抵抗する毛利家、
数正に続いて忠勝を失って「やる気」激減のわたし、
ところがゲームの神様はかなりご機嫌斜めだったのか、
さらにプレイヤーであるわたしを苦境へと追い込みます。
ゲームの神様はそこまで今川家に天下統一させたくないのか?
←
↑
□
→