放たれた荒馬「相馬顕胤&盛胤プレイリポート」(その4)




     武田家の最期(1550年2月〜


巨大化する相馬家に対抗するために、今川、織田、朝倉の三勢力が大連合を組み、
本城の数が十二という巨大勢力が生まれました。
その巨大勢力は西日本で最大版図を持つ大内家(本城7つ)と同盟を組んだようです。
大内家、今川家が関東より西を全て支配下に治めるまでの時間は、
そんなに掛からない事が予想されます。

 「顕胤様に報告の早馬を出せ! 我らは岩殿城へと急行するぞ!」

多目元忠から急報を聞いた北条氏康が叫びます。
岩殿城は相馬包囲網を敷いた勢力のひとつ、武田家に対抗するために築いた支城です。
武田家は包囲網に参加しつつ、相馬家への目立った攻撃をしていません。
ただ、その本拠地である躑躅ヶ崎館には七万を越える兵力を溜め込んでいます。
彼らの動きで関東周辺はまた大きくパワーバランスが変わる可能性があると言えるでしょう。

しかし、このタイミングで武田軍は遂に動き出しました。
相馬家の主力は東北を北へと向かっており、その隙を突いた格好になります。
関東に残っていた北条氏康、多目元忠らは周辺の城から兵力をかき集め岩殿城へと集結。
約五万の兵力で武田軍を迎え撃ちます。

敵の主力は騎馬隊、セオリー通りに戦うのであれば、岩殿城にひきつけて、
城を攻撃させている間に弓隊を城の上から攻撃させるのが一番でしょう。
しかし、今回は敵の勢いが違います。

 「このままでは持ちませんな。」

多目元忠が呟きます。
北条氏康もそう思っていました。

 「やはりそう思うか……、ここは城を捨てるしかなさそうだ。」

氏康らは足軽隊をまとめて城の外へ飛び出しました。
そして、武田軍に背を向けて岩付城へと遁走したのです。

 「……な、なんと、相馬は臆病者の集まりか?」

武田の将兵は呆気に取られ、逃げていく相馬軍を眺めていました。
どんな形であれ、武田家は相馬家の岩殿城を攻略しました。

 「ふむ、相馬にもなかなかの将がいるようだな。」

武田晴信は落ち着いてその報告を聞いたといいます。
ともあれ、相馬軍としては痛い敗戦なのですが、
ここで無理に戦うのを避けたかったので仕方ありません。

岩殿城は支城で、それなりの耐久力しか持っていません、
対して岩付城は守りを固めた本城ですから、
どうせ戦うなら岩付城の上から矢を放ち続ける方が良いと判断したのです。
この後、武田家の侵攻部隊は度々岩付城周辺の町並を奪い、
相馬家の防衛部隊はそれを取り返すという戦いが繰り返されます。
その間にも相馬家の主力は東北を北上、

1550年3月には斯波家が降伏、同年6月には伊達家も降伏しました。
それでも北侵の手を緩めない相馬軍は蠣崎軍が篭る西陸奥の石川城を攻略、
10月には蠣崎軍も降伏を表明しました。
残る東北の抵抗勢力は東津軽を支配する南部家だけですが、

この南部家はどうやっても降伏勧告に応じません。
同じ東北の騎馬が得意な大名家の意地なんでしょうか?
……それとも特別相性が悪いとか?

ともかく、本城、支城すべて攻撃して南部家を降したのは
今川家が織田家、朝倉家を吸収し巨大化してから一年半の時間が経っていました。
その間にも今川家は周辺の小勢力を滅ぼし着実に力を蓄えていきます。
同様に背後を気にしなくてもよくなった大内家も四国、九州へと広がっていきます。
最終的な対戦相手は今川家か大内家になるでしょう。

さて、最後まで抵抗を続けた南部家を降した相馬家の主力軍団は、
不要になった東北各城に蓄えられている兵馬を岩付城周辺へと集結させました。
前回の池田家リプレイで大失敗した兵力の輸送ですが、
今回は兵糧について気を配っていましたし輸送隊の兵糧軽減をする技術も取得済みです。
同じミスは二度と繰り返したくないものです。
(多分、忘れた頃にもう一回くらいやらかしそうですが……それはまた別の話で、)

1552年6月頃、東北平定から岩付城へと帰還した相馬顕胤、盛胤父子、
北条氏康、多目元忠は平伏して迎え入れます。

 「申し訳ございませぬ。岩殿城を武田に奪われました責任は我らにあります。
  我らに責を受ける覚悟は出来ておりますが他の将兵には責はありませぬ。
  どうか穏便な御裁断をお願いいたします。」

しかし顕胤は表情を変えることもなく全てを盛胤の判断に委ねました。
もとより氏康、元忠を罰する気など無かったのです。

 「いや、二人とも無事でなによりだぞぉぉぉぉ!
  これから相馬全軍で武田家を攻撃するのだぁぁぁ!
  二人には今後も力を貸して欲しいぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

盛胤の絶叫を聞いて二人とも笑みをこぼしました。
長引く武田との抗争に緊張していた二人は、
久しぶりに聞く盛胤の声に安心したのでしょう。

 「ならば、この元忠に策がございます。
  ここ数ヶ月の戦いで武田の軍馬は消耗しております。
  もう一度、ここで敵の軍馬に損害を出した後、決戦に臨まれると良いでしょう。」

その翌日から岩付城に兵の気配はほとんど無くなりました。
それもそのはず、岩付城には城兵わずか五千、
武田家の岩殿城には七万を越える兵力があるというのに岩付城には、
それに備える兵力を配備していないのです。

それまで集結していた兵馬は一時的に古河御所に送られました。
とどのつまり、岩付城を囮に武田騎馬隊を叩くという単純な策です。

 「しかし、元忠、このような策で武田晴信が掛かるのかぁぁぁぁ!?」
 「はい、武田にも後がない故、この一戦に賭けてくると思います。」

対する武田側、付き従う将が晴信に報告しています。

 「御館様、物見の報告ですと岩付城にはほとんど兵士が残っていないとの事ですが、」
 「我らを誘き出す策よ、しかし敵の将も意地が悪い、我らの事を良く理解しているわ……。」

武田には後がない?
そうです、西日本ではどんどん大内家と今川家が勢力を拡大しています。
ここで相馬家に苦戦しているようでは武田家に天下はありません。
このままではいずれ今川家に飲み込まれてしまうでしょう。

 「仕方あるまい、時間切れじゃ、全軍岩付城へ攻撃を開始するのだ!」

晴信の号令によって戦いは始まりました。
僅か五千の城兵しか残っていない岩付城ですが、
武田軍が動き出すと背後の古河御所から大量の騎馬兵が岩付城へと駆け込んでいきます。
相馬の騎馬兵は軍馬を降りると弓矢を持って再び出陣、
城の上から城門へ攻撃を繰り返す武田騎馬隊へ向けて射掛けます。
何万という矢が降り注ぐ岩付城の周囲は武田軍兵士の遺体で埋め尽くされました。
戦国最強とも謳われる武田軍壊走、

 「今こそ我らの力を見せる時です!」

多目元忠の声と同時に岩付城の城門が開き相馬騎馬隊が逃げる武田軍を追います。
相馬騎馬隊の中には当然、相馬盛胤の姿が、

 「武田軍を追うのだぁぁぁぁ! このまま岩殿城を取り返すぞぉぉぉぉぉぉ!!」

この戦いで甲斐岩殿城(支城)を取り戻した相馬軍は勢いをそのままに甲斐へと攻め上ります。
躑躅ヶ崎館から迎撃の部隊が出陣しますが、得意なはずの騎馬隊の姿はありません、全てが足軽の部隊です。
岩付城へと攻め込んだ時点で軍馬は使い尽くしたのでしょう。

 「やはり勝てなかったか……。」

こうして武田家は滅亡、またひとつの群雄が姿を消した事になります。
残る小勢力も大内家と今川家に淘汰される運命になるのか、
乱世は新たなステージへと進んでいきます。


     家督相続(1552年10月〜


九州方面、四国方面へと進出する大内家、西日本の小勢力を次々と併呑していく今川家、
そして関東、東北周辺大名を滅ぼした相馬家、
天下盗りレースの勝者はこの三勢力のうちのどこかになるでしょう。

武田家が滅亡した次の日、東日本のほとんどを制圧し一安心したのでしょうか、
顕胤は盛胤へと全権を委ね隠居生活を始めました。
盛胤はこうして家督相続をし相馬軍団の頂点に立ちました。

それまで重用されていた相馬騎馬隊の指揮官、田村隆顕を引き続き重用するのに加え、
長尾、武田、南部といった騎馬隊の得意な旧勢力の諸将らも重要なポストを与えられました。
北条氏康、蘆名盛氏らはこれまで同様足軽部隊の指揮官として活躍することでしょう。
概ね、それまでの相馬家と変わらぬ編成で盛胤は今後の相馬家を動かしていく事になります。

 「盛胤、すこし良いか?」
 「父上、なんでございましょうかぁぁぁぁ!?」

顕胤は盛胤を自室へと呼び出しました。

 「よいか、盛胤、お前の武勇はなかなかのモノだ、だが、
  政(まつりごと)について、また知略については別に優秀な家臣がいる。
  何かに困ったときは、」

顕胤は筆に墨を吸わせ盛胤の手のひらに『臣』という字を書くと、
しっかり、その手を握らせました。

 「お前の支える家臣の意見を聞くのだ。よいな……。」
 「はは、十二分に心得ましたぁぁぁぁぁ!」

翌月、盛胤と主だった家臣たちは小田原城へと入りました。
いよいよ巨大化した今川家との戦いが始まります。
手始めは駿河に築城された大宮城(支城)の攻略です。

それほど大量の兵士を蓄える事無く、今川の大宮城は静かでした。
その奥に建つ駿府城にも二万ほどの兵力しか配備されていません。
すこし不気味な感覚を受けつつ相馬軍は大宮城へと侵攻して行きます。
ここでも大宮城の城兵は激しい抵抗を見せる事無く難無く落城します。

 「元忠、この静けさは何事だ、今川は何をするつもりなのだぁぁぁぁぁ!?」

答えようとする多目元忠も困惑の表情を隠せません。
おそらくは、と声を発したのは北条氏康でした。

 「今川勢はまだ準備が整っていないのでしょう。
  近いうちに朝廷を介して外交の手を回してくると思います。」

朝廷を介しての外交。
天道パワーアップキットで新規に設けられた朝廷への貢献度を消費し、
朝廷の力を背景に行うコマンドが追加されたのです。
池田家でのリプレイでもすこし出てきましたが、
もう一度ここで説明をしておきましょう。

貢献度をあげるには、季節ごとの金銭収入の一部を朝廷に献上しなければなりません。
金銭収入の5%を献上すると貢献度は10上昇します。
同様に金銭収入の10%を献上すると貢献度は15、
15%を献上すると貢献度は20上昇する仕組みになっています。
この貢献度を消費して行うコマンドは以下の通り、

 ・斡旋 貢献度を40消耗し各地にいる浪人を朝廷に紹介して貰い登用します。
     実行するには文化「浪士斡旋」が必要です。

 ・招待 季節初めに朝廷からの使者が訪ねてきます。官位を貰ったり家宝を購入できます。
     実行するには貢献度60と文化「招待作法」が必要です。

 ・和解 朝廷に仲介して貰い敵対している勢力と停戦します。
     実行するには貢献度100と文化「和解礼法」が必要になります。

 ・仲立 朝廷に仲介して貰い他勢力と同盟を組むことが出来ます。
     実行するには貢献度150と文化「仲立礼式」が必要です。

 ・朝敵 他勢力を朝敵にします(関白を持っている勢力には実行できません)
     実行するには文化「勤皇論」が必要で貢献度300を消費します。

朝敵になった勢力は以下のような不自由が発生します。

 ・同盟、停戦がすべて解除される。

 ・同盟を結べなくなる。

 ・集落の民忠が減り、最大値が90になる。

 ・朝廷コマンドを実行できなくなる。

 ・公家が来訪しなくなる。

 ・包囲網を結成されやすくなる。

集落の民忠が減り……っていうのが実は厳しい。
減る量が半端じゃないんです。一揆が自動発生するくらいまで下がります。
どの勢力も朝敵にだけはなりたくないでしょう。
そうか、プレイしているときは気付かなかったけど
関白になったら朝敵にならないのか……なるほどねぇ。

北条氏康の言う通り、その翌月、はやくも朝廷の使者が相馬盛胤に会いに来ました。
「朝廷の顔を立てて、今川家と停戦せよ」と言うのです。
これから一気に今川家と戦い雌雄を決するつもりだったのですが、
余計な時間を過ごす事になりました。

 「殿、今川家とは停戦しなければなりませんが、
  黙って待っていれば今川は他の勢力を併呑し強大化するやもしれませぬ。
  我らも拡大できる土地があれば領地を増やしましょう。」

氏康に促され周辺を見渡してみると、能登半島の畠山家が残っていました。
すこしでも自軍を強化するために攻略しておかねばなりません。

 「今川の備えに小田原には兵馬を蓄えておくようにするのだぁぁぁぁ、
  皆も越中富山城へ集合だぁぁぁぁ、能登七尾城を攻撃するぞぉぉぉぉぉ!」

盛胤の号令で富山城へ主力は集結。
募兵奉行と軍馬奉行はしっかり仕事をしており着実に兵力と軍馬は蓄えられています。
盛胤を中心に相馬騎馬隊は畠山家の迎撃部隊を蹴散らし続く足軽部隊は城門に張り付きこれを破壊します。
その頃、今川家も小勢力を併呑しつつ、
駿河の駿府城、南信濃の高遠城に兵力を集結させているではありませんか、
能登の畠山城を滅ぼした相馬の主力武将は再び小田原城に集結、
停戦期間が終わったのと同時に今川軍の待つ駿府城へ侵攻を開始します。
いつもと同じように相馬騎馬隊が先行して駿河に侵入。
足軽隊はそれに続きます。

 「敵の迎撃部隊が出てこないぞぉぉぉぉぉ、どうなっているんだぁぁぁ!」

盛胤の言う通り駿府城から迎撃部隊がなかなか出てきません。
すこし不安感が残りつつも足の速い騎馬隊が最初に駿府城へと迫ります。
そこでようやく迎撃部隊が出てきました(武将を移動させていたのかな?)
敵部隊は全て弓や攻城櫓といった間接攻撃部隊。
城からあまり離れず矢を降らしてきました。

そうです、これまで相馬軍が騎馬隊の得意な相手に矢を使って対応したのと同じ作戦です。
「母衣」という騎馬技術で弓戦法の被害軽減する事ができるのですが、
それでも何度も弓戦法を受けるとやっぱり痛いのです。

また、今川家は弓技術の進んでいる大名家であり独自技術「与一の弓」を取得できるのです。
「与一の弓」は弓戦法の連携率が2割増になる技術です。
空を覆わんばかりの矢が放たれバタバタと倒されていく相馬騎馬隊。
大量の戦死者と軍馬を失いつつもどうにかこれを攻略することができましたが、

 「殿、このような戦い方ではいずれ我らも武田のような負け方をします。
  なにか手段を考えないといけませんな……。」

多目元忠の言う通り、このような戦い方では軍馬が枯渇してしまいます。
しかし、相馬軍は騎馬隊を活用し巨大化してきた大名家です。
違う手段、はたしてそれは見つかるのでしょうか?
そこへ田村隆顕が駆け込んできました。

 「殿、殿! 探しましたぞ、火急の知らせです!
  顕胤様が、お父上が亡くなられました!」

 「なんだとぉぉぉぉぉ!? 父上がぁぁぁぁぁっ!」

顕胤は自分がそれほど長くない事を悟ったのでしょう。
そこで盛胤に家督相続をしたのです。
乱世はまた次の時代へと急ぎ移り変わっていきます。
はたして、相馬家は天下を取れるのか……
以下次回に続きます。


   〜〜〜 これまでの主な出来事 〜〜〜


 1550.02 今川(本城5)+織田(2)+朝倉(5)が大連合を組み今川家(12)となる

      武田晴信(後の信玄)が相馬家の石殿城(甲斐・支城)を攻略する

   .03 斯波詮直が相馬家に降伏

   .06 伊達稙宗が相馬家に降伏

   .08 蠣崎慶広の石川城(西陸奥)を攻略する

   .10 蠣崎慶広が相馬家に降伏

   .11 南部晴政の金田一城(東陸奥・支城)を攻略する

 1551.02 南部晴政の三戸城(東陸奥)を攻略する

   .06 南部晴政の野辺地城(東陸奥・支城)を攻略、南部家は滅亡

 1552.10 武田晴信の岩殿城(甲斐・支城)を攻略する

   .12 武田晴信の躑躅ヶ崎館(甲斐)を攻略、武田家は滅亡

      相馬顕胤が相馬盛胤に家督を譲り隠居する

 1553.03 今川義元の大宮城(駿河・支城)を攻略

   .05 今川義元が朝廷を通して相馬家と六ヶ月の停戦をする

   .06 畠山義続の七尾城(能登)を攻略、畠山家は滅亡

   .11 今川義元の駿府城(駿河)を攻略する

 1554.01 相馬顕胤 死去

          :
          :
          :