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出雲奪回「尼子義久 プレイリポート」(その3)

御着攻城(1572年〜
ようやく夜が過しやすくなってきた秋の吉田郡山城下、
質素な武家屋敷で酒宴を楽しむ尼子主従の姿がそこにはありました。
「それにしても殿、毛利家中は殿のお力無しでは立ち行かなくなりましたな。」
酔ったのか、それとも長芋の粘り気が口の周りに付いたのか、
鹿介は顔を真っ赤にし引っかきながら、それでも上機嫌そうに話しました。
勢力を拡大し続ける毛利家は山陰方面に吉川元春、山陽方面に小早川隆景を配置し
それぞれ中国地方統一の為に戦闘を繰り返しておりました。
吉田郡山城に居を構える毛利元就もまた、孫の毛利輝元を中心に、
中国地方統一に戦闘を繰り返し西へ東へと駆け回っておりました。
その兵站を支えているのは、鹿介の言う通り尼子主従です。
ある時は大量の軍資金を上納し、またある時は大量の軍馬を買い揃える、
治安が悪化すれば住民の説得を行い、兵が不足すれば徴兵に走る。
尼子義久の働きは特に目立ったモノでした。
「あまり大声を出すな鹿介、殿とお主の目的は毛利家の中国統一ではあるまい?
事を起こす前にバレたらお主に責任を取って貰うからな。」
直家もそう言いながら苦笑い、
彼の能力は毛利家中でもズバ抜けており、
義久の陪臣ながら元就の主命を数多くこなしていました。
全ては尼子復興という大博打を楽しむ為に、
「うー、殿と直家は事を難しく考え過ぎなんすよ。」
一方の鹿介は残念な事にあんまり活躍の場は回ってこない。
戦に出ればそれなりに役に立つ勇将ですが、
事政になれば大きな成果は期待できない、根っからの武士なのです。
「ほほう、鹿介は考えなしで動いているのかの?」
それではと、義久が悪戯っぽく聞き返すと、
酔っていたハズの鹿介は急に真顔になり、したり顔で応えました。
「毛利家と赤松家の間で近々戦になりましょう。
殿、弓の修練を怠らぬようお気をつけなされ。
退き際もお間違えの無いよう。」
鹿介がそう言うと、
直家が驚いたように口を挟みました。
「なんじゃ、お主も同じ事を考えておったか、
それなら話は早い、殿、それがしに禄を与えて召抱えたい者がおりまする。」
直家が言うには花房正幸を召抱えるべきだと、
花房正幸は本来であれば宇喜多直家に仕官し、
その覇業を支えた弓の名手です。
彼を登用すれば毛利家中一の弓の腕前となるでしょう。
次の日、早速花房正幸を登用しましたが、弓の修行を行うより早く、
鹿介の言う通り、毛利家は赤松家の御着城攻略に乗り出しました。
総大将は毛利輝元、これに尼子義久と宇喜多直家は従軍することになりました。
しかし、御着城についてみると兵力差は、ほとんどなく城そのものもまた堅固で
とても攻略できるような状態ではありませんでした。
「……輝元様、援軍の要請をなさいませ。」
義久の進言に輝元も同意し吉川元春に援軍を要請、
しかし元春着陣後も苦戦を強いられる毛利軍、
大手門をどうにか破ったものの毛利軍の損害は大きく、
本丸陥落には何ヶ月も掛かる事は用意に想像できます。
「直家、この戦どう見る?」
「は、毛利の大殿は試しておられるようですな。」
義久はドキリとした。もしや我等主従の動向に気取られたか?
いや、そうだとしたら何故、毛利家の今後を託す輝元様を総大将に据えられたのだろう?
義久の困惑は表情に出ていたのでしょう。直家は続けました。
「我等を試すのと同時に、若殿様の器量までお試しされているのですよ。
毛利の大殿は我等の思惑なぞ殿が仕官した時から解っておりましょう。」
ならば何故? どうして我等を討たない?
なぜ兵を与えるのだろう?
「毛利の大殿は自分の死期を悟ったのでしょう。故に、
自分が死んだ後、我等が輝元様に忠義を尽くすかどうか、
自分が死んだ後、輝元様が我等を上手く扱えるかどうか、
を、お試しされているのです。」
我が家臣ながら恐るべし知恵者よ。
直家がさらりと答えた内容は確かに納得できる。
いや、それを聞いた今、そうとしか考えられない。
つまり、いま我等がなすべき事は、輝元様を盛立てるという事か?
では輝元様を盛立てるにはどうしたら良いか?
「撤退を進言なさいませ。若殿様が撤退を宣言すれば若殿様の威信に係わりましょう。
我等が泥を被れば若殿様の威信は傷付く事もなく、我等の忠義も伝わりましょう。」
鹿介が言っていた退き際とはこの事か?
義久は輝元本陣へと駆け込んだ、他の重臣や元春の前で、
皆が言いたくても言えない事を進言したのです。
「恐れながら申し上げます。輝元様、撤退致しましょう。
我が備も、我が家臣宇喜多直家の備も士気が崩壊しております。
このまま戦い続けては壊走は免れません。何卒撤退を、」
毛利軍の主力の一部である尼子義久隊が壊走しては戦にならない。
やむを得ないと判断した輝元は全軍撤退を決断したのでした。
撤退した毛利軍でしたが元就は翌年すぐに御着城攻略を指示、
これに対して評定の間で義久は合戦を否定、
元就と重臣たちの厳しい視線に晒されながらも、
前回の戦の反省から、御着城調略を進言しました。
「……義久の進言通り、今回は調略を行う。」
元就の一言に重臣たちは皆驚きを隠せませんでした。
確かに義久は今や毛利家になくてはならない存在ですが、
大殿の智と義久の智では大殿が大きく凌駕している、そう思っていたからです。
こうして元就が義久の進言を取り入れた事で、
義久はより一層毛利家の中心と考えられるようになりました。
輝元も義久をそれなりに信頼し重用するようになっていきます。
「なんにせよ義久め一々賢しい奴よ。
直家の入れ知恵か? それとも毛利家とともに天下を目指すか?」
元就は歯痒く思っていました。
義久主従の働きが真の忠義であれ、偽の忠義であれ、
毛利家が天下を目指すには義久主従の力がどうしても必要だったからです。
そして輝元に彼らを制御する力があるかどうか、
判断をつける事が出来ずにいたのでした。
その後、調略によって防御力を削がれた御着城は、
それでも六ヶ月もの長い期間を耐え続け守将小寺政職はついに降伏、
また、三木城の別所長治も毛利軍の猛攻を長く耐え続け、降伏、
この戦いで小寺政職、別所長治は高く評価され、
毛利家中でも高い信用を得る事になります。
-----これまでの流れ-----
1572.08.08〜 長船の町の鍛冶屋で『鉄砲』を学び1レベルになる
.08.29 花房正幸を家臣に加える
.09.01〜 治安向上(治安を9上げる)の主命を請ける
治安を21上げる
京の町の南蛮寺にて『開墾』を学び3レベルとする
.11.01〜 毛利輝元が総大将を務める赤松家の御着城攻撃軍に従軍
.11.28 御着城から退却を進言
1573.01.01〜 御着城攻撃を反対、調略によって御着城弱体を進言
御着城の城門破壊(防御度5下げる)の主命を請ける
防御度を5下げる
甲賀の里で『忍術』修行をし4レベルとなる
.03.01〜 治安向上(治安を9上げる)の主命を請ける
治安を21上げる
京の町の南蛮寺にて開墾を学び4レベルとする
.05.01〜 軍資金調達(3000貫を元手に4000貫以上にする)の主命を請ける
交易品等で10000貫を稼ぎ8000貫を上納、残りを貯金する
.07.01〜 毛利元就が総大将を務める赤松家の御着城攻撃軍が進発、従軍せず
家臣の花房正幸から『弓術』を学び3レベルとなる
同僚の二宮就辰から『鉱山』を学び2レベルとなる
家臣の山中鹿介から『軍学』を学び2レベルとなる
.09.01〜 石山の町の安井道頓に『建築』を学び3レベルとなる
.10.04 長船綱直を配下に加える
.11.01〜 家臣の長船綱直から『建築』を学び4レベルとなる
〃 『鉱山』を学び3レベルとなる
1574.01.01〜 馬屋で『騎馬』修行を行い2レベルとなる
.05.01〜 毛利輝元が総大将を務める赤松家の三木城攻撃軍に従軍
守将別所長治は降伏、戦功第一となる

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