少数精鋭「今川義元 プレイリポート」(その4)




     今川包囲網(1567年〜


上杉勢六万は依然富山城にあり、対する桜洞城の今川六万と睨み合いが続いていた。
この状況を打破する為に、松平元康隊は小谷城から北上し、
朝倉支配下の敦賀港、弓木城、一乗谷城を次々と攻略、その勢いで北陸を東へと進み、
桜洞城の兵力を持って挟撃する動きに出たのである。
しかし、今川家のあまりの勢いを恐れた周辺諸大名は、
それまで散々に叩いていた上杉家と共に今川包囲網を結成した。

 「出る杭は打たれるといいますからな。」

雪斎の言葉に義元は苦笑した。
杭を打つために昨日の敵を味方に引き込むという節操の無さ、
別の言い方をすれば逞しい根性と言ったところか?

 「時に雪斎、朝倉家の宝物庫から弓術に関する書物が見つかったそうだが、」

義元は元康の報告を思い出していた。
先に滅ぼした朝倉家一乗谷の城下には雅な街が広がり、
学術的にも文化的にも繁栄していたと言う、
その宝物庫には今の今川家にとって是非とも欲しい書物があったのだ。

 「はい、石川数正に与え、弓術の研究をするのが良いかと、」
 「麿もそう思っておった。」

弓術の研究開発に行き詰っていた今川家にとって、
包囲網という困難に対する僅かな光明と言ったところであろう。
石川数正と雪斎、義元はすぐに弓技術の研究に入った。
こうして新たな弓技術が開発されるまでの間、耐え続ける戦いが始まった……。
以下、同時に複数の戦が始まった為、箇条書きとする。
尚、●は負け、○は勝ち、△は引き分けを意味する。

    攻め手           /   守り手

  ● 赤松家 丹波   八上城  →
        因幡但馬 鳥取城  → ○ 今川家 丹後   弓木城

     赤松勢二万四千を一乗谷から引き返した松平元康一万八千で撃退、
     赤井直正を捕らえるも名僧の手引きにより解放する。

  ● 本願寺 加賀   御山御坊 → ○ 今川家 越前若狭 一乗谷城

     本願寺勢七千が松平元康の退いた一乗谷を強襲するも、
     鳥居元忠が一人残り今川勢八千で撃退する。

  ● 鈴木家 伊賀大和 筒井城  → ○ 今川家 伊勢志摩 霧山御所
        紀伊   雑賀城  →       南近江  観音寺城

     観音寺城から榊原康政が筒井城へ向けて出陣、
     鈴木総勢四万弱に対し僅か一万を率い足止めに成功する。

  ○ 今川家 南近江  観音寺城 → ● 鈴木家 伊賀大和 筒井城
                  →       紀伊   雑賀城

     長引く戦闘によって鈴木家の兵糧が尽きる。
     榊原康政八千は機会を逃さず逆襲し大功を挙げる。

  △ 上杉家 越中   富山城  → △ 今川家 飛騨   桜洞城

     長き睨み合いの末、上杉勢六万が飛騨侵攻。
     武田信虎、酒井忠次が出陣し服部正成の計略によって撃退。
     途中、弓学舎が破壊されて技術開発中断される。双方死傷者多数。

  ● 上杉家 越中   富山城  → ○ 今川家 飛騨   桜洞城

     上杉勢四万が再び飛騨侵攻するも服部正成の計略が冴え、
     武田信虎、酒井忠次の戦法が次々と的中し大勝する。

  ○ 今川家 飛騨   桜洞城  → ● 上杉家 越中   富山城

     先の戦の大勝により反撃に転じ負傷兵多数の富山城を攻略。
     加賀の御山御坊から進軍してきた本願寺勢をも撃退する。

  ○ 今川家 越中   富山城  →
        越前若狭 一乗谷城 → ● 本願寺 加賀   御山御坊

     飛騨桜洞城から富山城を攻撃した武田信虎らが富山城攻略後、
     一乗谷の鳥居元忠と加賀御山御坊を挟撃して攻略に成功する。

  △ 赤松家 丹波   八上城  → △ 今川家 山城   室町御所

     赤松勢は戦わずして自ら撤退を開始。

  △ 武田家 南越後  春日山城 → △ 今川家 信濃   深志城

     武田勢は戦わずして自ら撤退を開始。

  △ 武田家 上野   箕輪城
        下野   宇都宮城 → △ 今川家 武蔵   岩付城
        下総   古河御所         相模伊豆 小田原城

     武田勢六万は武蔵北に支城を一夜にして築城し岩付城へと攻撃開始。
     今川勢六万は本多忠勝を中心に岩付城より討って出るも痛み分け、
     双方死傷者多数。

  ● 今川家 武蔵   岩付城  → ○ 武田家 安房上総 久留里城
                          下総   古河御所

     武蔵の頭を抑えられた今川家は起死回生を狙って手薄な久留里城を狙う。
     しかし武田勢二万の真田幸隆の智略に本多忠勝三万は散々に翻弄され、
     足止めを喰らったところを古河御所からの援軍に強襲され撤退。

  ● 今川家 武蔵   岩付城  → ○ 武田家 下総   古河御所
                          下野   宇都宮城

     本多忠勝三万が久留里城攻めで苦戦している間に、
     渡辺守綱は本多正信らを引きつれ古河御所へと進軍するも、
     忠勝隊が撤退を開始した故に包囲され敗走する。
     本多正信、負傷するも命辛々逃げ遂せる。

  △ 武田家 上野   箕輪城
        下野   宇都宮城 → △ 今川家 武蔵   岩付城
        下総   古河御所         甲斐   躑躅ヶ崎館
        安房上総 久留里城

     敗走を続ける今川家に対して武田軍は遂に全勢力を持って岩付城へ侵攻。
     本多忠勝、渡辺守綱、本多正信らが奮戦するも落城寸前まで追い込まれる。
     躑躅ヶ崎館より本多重次が輸送隊四万で到着すると何とか押し返す。
     両軍総勢十数万が参陣した戦は痛み分けで終る。双方死傷者多数。

猛将は足りているのである、この戦況を見ていただければ解ると思うが、
敵の智略に秀でる武将と相対するときに大敗を喫する事が多々あるのだ。
本多正信、服部正成といった知謀に長けている将は確かにいるのだが数が少ない。
今川義元、太原雪斎、石川数正が技術開発に没頭すると弱点が露呈してしまうのである。
実際、もっと数多くの武将が居ればどれほど楽であろうか?
ま、今回のリプレイの「ウリ」は武将が少ないという事なので仕方ないのだが……。

さて、ここまで箇条書きで記してきた戦の他にも、
各地で小競り合いが続き、あっという間に一年半の月日が経っていた。
間も無く弓技術も最大まで上がる頃、今川包囲網結成後、最大の戦が始まった。

武田家は春日山、新発田両拠点から五万にも及ぶ兵力を箕輪城へと輸送し始めた。
岩付城を意地でも攻略するという意志の表れであろうか?
これに対し今川軍は駿河から兵を輸送し岩付に計六万の兵を駐屯させる。
それでも箕輪に五万、宇都宮、古河御所等の武田側拠点を合わせると十万近くの大軍。
これでは今川勢としては全然足りない状態にある。
ただ城に籠もっていては劣勢は覆せないと判断した本多忠勝は、
精鋭三万を率いて武蔵の北、武田方が築いた河越城へと向かった。
度重なる戦闘で軍馬の多くを失っていた武田勢は原虎胤が足軽を率いて迎撃に出た。
双方の名将がぶつかり一進一退を繰り返すが、足軽技術では今川に分があり、
死力を尽くし原虎胤を退けると今川勢は一斉に河越城へと取り付いた。

武田勢はすぐさま宇都宮城、古河御所、箕輪城から相次いで援軍を出す。
本来なら取り囲まれる前に退くのが上策であろうが、
退いたとして箕輪に到達する援軍五万を考えればどちらにしても持たないのは必至。
本多忠勝、渡辺守綱は槍車、槍突撃、槍衾と次々と攻撃を繰り返し激戦の末、
すぐそこに武田騎馬の嘶きを聞きながら難攻不落と思えた河越城を奪取したのである。
本多忠勝は最後まで抵抗した原虎胤を捕らえると有無を言わさず斬首し、
岩付に残した守備兵三万の全てを河越城へと向かわせた。残ったのは傷病兵二万。
隙ありと久留里城を出た武田一万六千は岩付城を目指し進軍するも、
罠に侵攻を阻まれ、更には徐々に回復していく岩付城の傷病兵二万が頑強に抵抗する。

それでも劣勢の今川勢は箕輪城への援軍が到達する前にこの状況を打破したい。
河越城から本多忠勝ら三万を率い古河御所を襲撃。
古河御所の軍馬も極端に消耗しており、
やむなく足軽隊と弓隊で編成された部隊に対しては
今川勢が優位に戦闘できると踏んだのだ。しかし、
確かに優位に戦いは進められたが多勢に無勢、徐々に押し返される。
今川勢は河越城へ撤退、意気あがる武田方はこれを追撃。
ところが河越城へ戻った忠勝は三千の決死隊を募り奇襲攻撃を仕掛ける。
見事に奇襲に掛った敵目掛けて河越城からも出陣し挟撃。これを撃破する。
だが、ここで時間切れ、箕輪城へ輸送隊五万が到着。

忠勝らは河越城へと戻り撤退もやむなしと言う将兵を鼓舞し、
なんと兵、士気とも充分な箕輪城へと出撃したのである。

 「血迷ったか? 忠勝っ!」

「寿命なし」でプレイしている為、武田家臣となり未だ壮健な長野業正が迎え撃つ。
武田勢その数七万が展開する箕輪城下に今川勢四万が飛び込んでいく、
もちろん血迷ったわけでも諦めたわけでもない。十二分に勝算があっての突撃である。
その勝算とは箕輪城の背後の丘からやってきた。
今川義元率いる弓騎馬隊を主力とした援軍であった。
「継矢」を開発し終えた義元、雪斎、石川数正らは深志城にあって、
一気に軍馬を飛ばし箕輪城へ殺到。まさに矢継ぎ早に次々と矢の雨を降らす。
さすがの長野業正も完全に挟撃された形になった箕輪城に籠もっていては勝ち目なし、
激しい攻防戦の末ついに箕輪城陥落。長野業正は斬首。
かくして今川包囲網は大きな戦果を挙げるどころか、
今川家の大反撃によって幕を閉じたのであった。